自分は少女誘拐監禁事件の被害者だったという驚くべき手記を残して、作家が消えた。黒く汚れた男の爪、饐えた臭い、含んだ水の鉄錆の味。性と暴力の気配が満ちる密室で、少女が夜毎に育てた毒の夢と男の欲望とが交錯する。誰にも明かされない真実をめぐって少女に注がれた隠微な視線、幾重にも重なり合った虚構と現実の姿を、独創的なリアリズムを駆使して描出した傑作長編。
出版社:新潮社(新潮文庫)
解説でも触れられていたが、この作品でもっともすばらしいのは物語に漂うリアリティだろう。
新潟少女監禁事件に着想を得た作品だけあり、ここでは少女が男に誘拐され、一年以上も監禁されるという残酷な事態が描かれている。それは現実に起きた事件とは違う設定がなされているが、そこには現実よりも現実らしい圧倒的なリアリズムがあって驚くほかない。
小説では少女の生まれ育った町や親との関係性から筆が起こされているが、その描写の細緻さにはうなってしまう。
気の弱い父や、見栄を気にする母の描写は本当に存在しそうだと感じさせる手応えがあるし、それを理由にいじめられる少女の姿もリアルだ。その様を観察し描写する作者の視点はとにかくするどい。
だがそのような日常風景のリアリティ以上に、もっとすばらしかったのは、少女の監禁生活という誰にも理解できない特殊な体験まで実にリアルに描かれているという点だ。
孤独に恐怖したと語る監禁生活や、生活のリズムさえ作れば耐えていけるという描写、夜における少女と監禁する男の関係の逆転性、ケンジという男のずる賢さなどは、本当にそうかも、と感じさせるような、驚くほどのリアリティで描かれる。もちろん監禁から解放された後の生活の描写にも納得せざるをえないような説得性がある。
このように世界を説得力もって描写する力は並の作家にはできるものではない。桐野夏生の筆力の力強さに完全に圧倒されてしまうばかりだ。
そしてそのような物語を通し、性の玩具の対象となってしまう女性性の問題と、好奇心や詮索好きな感情によって自分のことを想像されることに対する嫌悪感が立ち上がってくる。
その二つは種類は異なれど、共に被対象者の感情をないがしろにした行為と言えなくはない。
「皆が勝手に私を思い遣り、どんなことをされたのか、好きなように想像するのだ。(略)子供ほど屈辱に敏感な存在はないのだ。屈辱を受けても晴らす術を持たないからである。」という文章に漂う訴えの強さには本当に感心してしまう。
少女はそれらの視線に対して、想像力を駆使して立ち向かおうとしているように感じられる。だがその想像力は結局想像でしかなく、現実というやつに到達しうるものではない。
実際、少女は男の性欲のために監禁されたが、その性欲というものを想像できず、絶望じみた思いを味わうこととなる。
だが少女は何とか自分なりに折り合いをつけたかったのだろうか。『泥のごとく』を書き、想像によって自分に起こったことの輪郭でも形にしようとしているように見える。
だが想像はどこまで現実に対抗可能なのであり、現実を克服しうるのであろうか。
少女は自分を理解できるものはケンジなのではないか、と考えているが、体験を通してしか、人間は何者かとつながることはできない、と少女は思ったのかもしれない。実際、宮坂と少女が結ばれたのは、自分の苛酷な体験を理解する対象として宮坂がふさわしいからだ、と思ったからではなんて皮肉な見方をしてしまう。
ならば作家となった彼女はケンジに会いに行きそうなものである。だが作者はそうはさせなかった。
そこが作家なりの想像力への信頼だと見えなくもない。つまり自分の特殊な体験を共通理解してくれる可能性があろうとも、決して加害者の方になびいてはいけない、という風に言っているように見える。そして、人間は苛酷な体験に対してあくまで想像力でもって対処をするしかないのでは、というような姿勢にも見えなくはない。
それは単純に僕の誤読かもしれないだろう。だが一つの視点としては有りなのではないだろうか。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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